子ども世代の声

子ども世代の声を紹介します。10代や30代など年代によって、そして、家族構成や診断を受けたのがお父さんかお母さんかによって、状況が異なり多様です。

共通点を見つけてみたり、他の子ども世代の方の考え方や工夫から学びを得ることもあると思います。


はっしーさん(40代)

母の異変と診断のころ

アルツハイマー病と診断を受けたのは、母が59歳の時、私は30歳で医療関係の仕事をしていました。物忘れがひどく、冷蔵庫のものを腐らせてしまうこともあった。今思えば、私が大学生のときから、母のお財布には小銭がパンパンだったかも。

本人はすぐに病気を受け入れることは難しく、最初は拒否的でしたが、私がフルタイムの仕事で不在の中、ひとりで家で過ごすことが難しいと感じ、母に生活のリズムを大切にしてもらいたくてデイサービスに行ってもらったり、家事をできる限りやってもらった。ご近所さんには、認知症のことについて書かれたマンガを読んでもらい、母の病状について知ってもらった。

でも、自転車のカギを失くしてしまったり、誰かが盗んだと話したり、文字が書ける状態だったため、自宅にくる訪問販売の勧誘に契約をしてしまうことを考えて、私は成年後見人となった。飼い犬のことでご近所とトラブルになったこともある。私の出勤よりデイサービスのお迎えが遅いために、デイサービスに行きたくないと出勤して30分で連絡が来て帰宅したこともある。

仕事と母のケア

キャリアを重ねていくと、次第に職場での役割や責任が大きくなっていった。定時に職場を出ることも難しく、「お母さんの夕飯どうしよう・・・」と困ることもあった。

夜勤もあったので、私の仕事のシフトが出ると、すぐにケアマネさんに連絡し、ショートステイの予定を入れてもらっていた。母は私の勤務に合わせて、デイとショートを利用していたので、「私には休みがないわぁ」とつぶやいていることもあった。「母さん、ごめんよ」私には仕事と母のケアで精一杯だった。

実は、診断時にグループホームと特養の申し込みはしていた(待機者が多いと知ってたので)。在宅でのケアが5年ほど続けた頃、グループホームからの空きの連絡が!!介護離職もしたくなかったが、職業柄転職も含めた離職ができなかった。ヘルパーさんをいれても、日常が回せなくなったこのタイミングで入居することを選択した。

グループホームに入居後

生活の場所が変わっても、母と子の関係は変わらない。グループホームは駅近で、私の職場や、兄の住所からも近いところを選び、お休みの日に普通に歩くことができていた母を外出に連れ出していました。家族会にも積極的に参加して、交流する機会をつくりました。

父はすでに他界しており、これまで母の介護は妹の私に任せきりだった兄だが、グループホームに入居してからは、母の変化に気づいたり、ケアをしてくれるようになった。(狙い通りである)少しずつ分担や協力ができて現在は良い関係を築けている気がする。

私はその後、結婚や出産を経験。自分の人生は、介護に邪魔をされたくなかった。あきらめたくなかった。診断を受けて15年程が経過する。今も働きながら、2児の育児とダブルケア状態ではありますが、母には、少しでも永く元気で、孫の成長をみていてほしいと思っています。

なおやさん (20代)

一番キツかったこと

中学1年生の夏休み、父親は急に仕事を辞めてしまった。そのまま部屋に引きこもるようになりました。家計もかなり厳しい状況でした。 

その後、急に怒り出すなど精神的な異変を感じ、病院に行ったところ「うつ病」と診断されました。僕は、父とテレビゲームをしたりして、一緒に過ごしていました。精神的な症状は落ち着きを取り戻してきましたが、物忘れの症状が改善されないので、半年後、別の病院で診てもらったら、「認知症」と診断を受けました。

会話が成り立たなかったり、大声を出す、何でキレているのかわからないという状態もあったから、認知症とわかるまでが一番キツく、しんどかった。恐怖や怒りの感情もあった。

認知症と診断をされたとき、とまどいもあったけど、本当の原因がわかってよかったという気持ちがあった。母親が介護関連の仕事をしていることもあって、父親の怒りや言葉の暴力など不可解な行動に対しては「病気がそうさせている」と教わり、そう受け止めるようにしていました。

先生にもう少し理解してほしかった

診断から数年後、主治医からの紹介もあり、父親はデイケアに週4日通うようになっていました。感情の起伏は激しかったが、身の回りのことは自分でできていたので、特に何か手伝うことはなかった。

高校時代、進路について担当の先生と面談をしたときのこと。「なんでこの学力で、この大学なの? もっと上を目指しなよ」と言われて、自分が行きたかった大学だし、経済的にも複数の大学を受験するのは難しいという理由を伝えた。そしたら、先生からは「家庭の問題であって、あなたの問題ではないでしょ」と言われた。いやいや、大いに家庭の問題が関係しているでしょと思ったが反論はしなかった。

そのときの先生の発言は、状況を理解をしてくれないと感じ、それ以降、他人に相談したり、他人を頼るのはやめようと悟りました。

父親と過ごした時間

サッカーの好きな父親と、深夜の中継放送を観戦して、一緒に騒いでいたら母親に「うるさい!」と怒られたことも(笑)。いろんな思い出がある。思春期ではあったが、反抗している場合ではなかった。高校を卒業した頃には、身の回りのことが難しくなり、入浴や食事の支度、着替えなどを手伝うことも増えていました。

また、父親が病気になる前、「先を読んで行動しろ」とよく教えられたことが印象に残っている。おかげで、自分がどう行動したらベストなのか、よく考えてから行動するようになっていた。

経済苦の経験も、そこから物のありがたみを学び、また、働きながら生活費などを工面したりと、僕自身が、自立するための意識や生活力を身につけるきっかけになったと思う。

父親のことで経験した様々なことが、今の自分の生き方につながっている。

Risaさん(30代)

徐々に受け入れていけるようになる

父が若年性認知症になり、最初はこの先どうなってしまうのかと漠然とした不安があったり、介護の知識が全くなかったので父のために何をしてあげたらいいのか分からず、常に頭の中から父の事が離れませんでした。不安や心配から精神面で主人や子供にも心配をかけてしまったところはあります。

受け入れる事もなかなか出来ず、日に日に進行していく父に会うのがこわくなってしまいました。

父は前頭側頭型認知症の症状により周りに迷惑をかけてしまう事が続き、その時に若年性認知症コーディネーターさんや地域包括センターの方、父に関わってくださる皆様が助けてくださりました。

助けてくれる方がいるという安心感から徐々に受け入れていけるようになっていきました。 それと最初は人に話すことも出来なかったのですが、相談する事ができるようになり、自分の精神面が落ち着いてきたことも大きかったと思います。

認知症の知識を学んで、父の行動は認知症の症状によるものなんだと思えるようになった事で受け入れていけました。

ケア役割と母への思い

父とは一緒に暮らしていなかったので、直接的なケアはほとんどしていませんでした。 病院へ一緒に行ったり、孫を連れて公園に行ったりしましたが、主に母が父のケアをしていました。 私は、それに対してもすごく罪悪感があり、母に申し訳ない気持ちがとてもありました。

今は、父はグループホームへ入居していて、週に一度、会いに行き、介護職員の皆様と一緒にサッカーをしています。

認知症はマイナスなイメージも強く、周りになかなか相談しづらいと思います。 私もそうでしたが、同じような境遇や介護の知識がある方に相談をするとアドバイスや肯定をしてもらい気持ちが少し前向きになれました。 後は自分の人生を大事にすることも大切だと思います。

井上さん(20代)

若年性認知症って何?

母はバリバリ働くキャリアウーマンでしたが、40代で物忘れで仕事に支障がでるようになり、精神科に受診したら「うつ病」と診断を受けていました。一時期、父は単身赴任で母と数か月二人暮らしをしていました。尋常ではない様子を父に訴えると、母は父のもとで生活するようになり、私は祖父母と生活をするようになりました。

その後、友人の紹介で病院で検査をしてもらったら、前頭側頭型認知症と診断を受けました。私は高校生で受験期でもあったので、(父は私に配慮したのだと思いますが)すぐに知らせてもらえなかったです。定期的に両親に会いに行く機会もあったので、母の変化を目の当たりにしました。なので、父に母の異変について話したら、「認知症は治る見込みがない病気だ」と知らされ、深くショックを受けました。

葛藤と受け止め

診断を受けた頃の症状として、ひどかったのは屋内での徘徊でした。また、睡眠障害がありました。夜中に、誰かがいるかのように自然に話している様子もありました。それによって家族も睡眠不足になりました。MRIの検査を受けると、脳の萎縮がひどく、認知症の症状としては重度であると医師から言われました。

それから2年程が経った頃、家族3人で旅行にでかけました。その時に、母の言動に対して、怒りをぶつけたのです。私は、心のどこかで受け止めきれない気持ちや薬で治るのではないかという思いがありました。でも、母は期待した反応はなく、父は「いいかげん分かりなさい」という冷たい目で私を見たのです。その瞬間、現実を受け止めざるを得ないんだ、と感じました。涙が止まらなかったです。それを機に腑に落ちたように気持ちが切りかわり「今、この時間を大切にしよう」と思うようになりました。

インターネットで調べてみたけど・・・

母の病名を聞かされたとき、インターネットで「若年性認知症」を調べてみましたが、見れば見るほど、ネガティブな内容のみで苦しい心境に追いやられていった感覚がありました。情報の取捨選択が難しく感じました。高校生だった私には、医学的な言葉は理解しにくく、困惑や不安な気持ちになっていくばかりでした。 

家族の病気や症状を理解したい気持ちと受け入れがたい自分の気持ちがついていかなかったです。精神的に不安定になり、体調を崩すこともありました。

あの時に、何でも好き放題言い合える場、自分自身が苦しくなった時に話を聴いてくれる場があればよかったのに、と思います。最近になって、若年性認知症の親を持つ子ども同士で話せる場に参加して、自分の経験を伝えています。

小野さん(30代)

母の変化と自分の気持ち

母は5年前の60歳の時に診断を受けました。診断がつくまで時間がかかったので、方向性が見えて少し安心感を得ていました。

私は、一人暮らしをしており、週末に実家に帰って認知症の母と会っています。少しずつ症状が進行していく母を見ながら、戸惑いもありましたが、比較的自然に受け止められるようになったと思います。

当初、母はパートをしていました。 症状が出て来てからは仕事を上手くこなせなくなったみたいで、間もなく辞めました。 母はこの仕事にやりがいを感じてましたし、 良い成績を残してたみたいで、嬉しそうにその事を語っていたこともありました。 物静かな人だったので、良い仕事に巡りあって良かったと思っていましたが、症状が出てからは、お金の計算ミスをすることもあったようで、今までの日常と症状の狭間で苦しんでた母を想像すると、堪らなく辛いです。

そう思うと、逆に今の母の屈託のない笑顔を見た時、これで母が幸せならそれでいいのかもしれないと、思う事があります。

週末は母と外出をしています

私の関わり方は、車で1時間くらいのところにある実家に週末帰って、一緒に散歩をする事です。 日常の介護は父がしています。 散歩では体を動かす事を心がけています。 公共の施設で、階段の登り降りや、扉の開け閉めを繰り返しています。

症状に対しての考えもありますが、どちらかというと、筋力の衰えを少しでも緩和させたい思いからです。 終わったら「からあげクン」を食べてもらってます。 たんぱく質の補給です! また、毎週美術館に通っています。 精神保健福祉手帳を持っているので、本人と同行者は無料です。

 母に刺激を与える目的もありますが、私自身の楽しみでもあります。 また、人がいるところに出向く事は、母にとっても良いことだと考えています。

一番気がかりなことは・・・

実のところ、認知症の母と関わる上で一番の問題が父親です。母との二人暮らしで負担感を抱えていると感じます。 非常に気難しい人間で、被害妄想が激しく、人とまともに接する事ができません。

母をデイケアに行かせてる時期もありましたが、デイケアの方から「嫌がらせを受けている」と言うようになり、止めてしまいました。その後、何件かこのような事が続き、今ではデイケアに行けていません。 これは 母のケアにとってとても大きな問題です。 この状況をどうやって打破するか、いつも悩んでいます。

認知症自体は症状として一般化できるところが多いかも知れませんが、それを支える家族の形は当然ですが多様です。 私のように比較的特殊な状況があるということか発信できれば、もしかしたらどこかにいる同じような境遇の人に、一人じゃないよって言える気がして、この投稿をさせてもらいました。

かおりさん(30代)

父の病気をどう受け止めてきたか

8年前に診断を受けた際はとてもショックを受けましたが、「なってしまったものは仕方がない」と気持ちを切りかえました。また、本人も落ち込む事なく病気を受け入れていた点も大きかったです。

症状がどのように進むか、どういった備えが必要かをネットで調べている際に、若年認知症ねりまの会MARINEやまりねっこの存在を知り、家族会、こども世代の集いにも参加させていただきました。

経過や備えに関してのお話を実際に伺えたのはとても良かったです。 また、若年性アルツハイマーの旦那様を介護されている女性のブログを見て、気持ちの切りかえ方、利用できる制度やサービス、施設の選択肢を知ることができ、とても参考になりました。

私のやってきたこと

私は結婚し、実家を離れていますので、介護者である母のフォローをしました。例えば、位置情報サービス(GPS)の導入や名札キーホルダー、洋服用名前シールの手配等の準備をし、迷子対策(警察にお世話になったので)をしました。

また、施設見学に行き、施設毎のメリットやデメリットをスプレッドシートにまとめ、WEB上で共有し、家族での選択に迷いが少なくなるようにしています。

症状が進み、デイサービスが決まるまでの在宅で見守りが必要な期間は、会社の制度を活用し、実家での在宅ワークを許可してもらいました。

不穏時は暴力もあり、ショックで悲しい気持ちにもなりましたが、「父は病気なんだ」ということを自分自身に言い聞かせて、乗り切りました。 また、見守り時の父の過ごし方、デイサービス見学時の様子もスプレッドシートへまとめ、家族間で症状を共有してました。

これから親と向き合う人へ

私の場合は、介護における経過や都度起こる事象に対しての選択肢、バックアッププランがなければ不安な気持ちを払拭することができない為、とにかく調べること、選択肢を増やすこと、情報をまとめることに力を注ぎました。

症状や進行が人によって変わるので、「ケアの正解」を見つけるのがとても大変な病気だと思います。

また、家族だけで出来ることに限界がくる病気でもあります。是非、ケアマネージャーや家族会等、外部にヘルプを求めてください。私は、自分の足で調べることで、まだ知らなかった選択肢や症状の変化を知ることができました。

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